「好きな仕事を生業とする」

  自分は物心ついた頃から「建築士」という親父の生業を見て育った。幼稚園に上がる前、里山に在る茅葺屋根の古民家に暮らしていた頃、父はその家の玄関土間脇で引き戸のある物置の中で勤め先から戻った後も建物の設計図を描いていた事を薄っすらと覚えている。ある時、普段は優しい父から大事な図面を引き裂きながらこっぴどく怒られた記憶がある。その理由は父が時間を惜しんで描いていた図面に自分がマジックでいたずらを書きこんだからだ。なぜそのような行為に至ったのかは今となっては特に思い当たる節はないがおそらく早く仕事を終えて自分と遊ぶ時間を持って欲しいと。当時手伝ったのではないかと思う。これが現在父と同じ「建築士」という仕事をしている自分の初仕事?だと思う。
 その後、父の独立を期に時折息子も現場に同伴するようになった。そこではいろいろな職人さん達が、各々の技を用いて父の描いた図面とおりに「ひとつ」の建物を造り上げていた。
 建物の一部分である材料の仕口を、鋸・鑿などで刻み、カンナを掛けで磨き上げその一部に組み上げて行く大工。トロ船で練り上げたモルタルや漆喰を手品の様に「ひょいっ」と盛板に載せ、まるでお化粧をするように建物に纏わせて行く左官。その他多くの匠たちを束ね、作業手順の指示や安全を見守り各々の調整役、現場監督としての父。別の日には注文者である施主の漠然とイメージを聞きそれらを技術的、法令的、予算的に現実の物となるように計画・設計を行う父の姿があった。それを見て何時しか自分も父のように建築士という仕事がしたいと思うようになった。 周りから将来の夢はと聞かれると「一級建築士になる」と必ず答えた。その為にはこれから先どのように進んで行けばよいのかをいろいろ調べ地元の高校を卒業後、都市部の大学建築学科へ進学。志しに同調するゼミ教授の指導を受け資格取得の礎となるよう懸命に課題に取り組んだ。卒業後は「他人の飯を食わせる」という父の意向もあり大手ゼネコンへ就職。配属された現場ではビル等の大型物件を手掛け地元では出来ない経験を積んだ。地元に戻り父から仕事を学んでいる中半、病気の悪化で帰らぬ人となった。今でも時折小さい頃から何気なく観てきた父親の仕事に対するポリシーを思い出す。施主を初め工事に携わる人達すべてが揃う事で一つの建物が出来上がる。これはまるで「オーケストラ」、「作曲家」、「パトロン」の関係のようだ。その中の誰一人として掛けると「美しい曲」には聞こえないしその曲自体がそもそも生まれない。自分もその一役を担い、その先住まわれる御家族の喜ぶ顔が見られる事を糧に、この仕事に就けて「ありがたい」と思い生業としている。

代表取締役 笹原 剛